👨宮台真司

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Insights #

大学1年生のとき?小林よしのりのマンガを読んでいてその対抗論者としての宮台さんの著作をいくつか読んだ. そしてたぶんその背後の実存的な思想に感銘を受けたのか, いつくか読書メモを残していた.

最近(2022), Youtube動画がそこそこアップロードされていてそれをみたので, むかしを思い出そうとしてメモを発掘してみた. たしかに, 閉塞的な大学1年生のわたしには響きそうな内容だな.

📝加速主義の論者として情報発信をしているのはすこし注目している(宮台真司さんの加速主義の情報発信まとめ).

🎓Wikiの整理にパタン・ランゲージを活用して横断的な知恵を目指す #

ネットで宮台さんの頭の良さがよく語られていて, その理由の一つはパターン認識力ではないか?

ref. 📹宮台真司×荘子it 『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』刊行記念トークイベント

パターン認識が好きで, いろんなジャンルを横断してそこに存在するパターンを通じて物事に認識するとか. とてもおもしろい視点. このwikiでも, そういう雑多なものをタグでまとめることによって化学反応的になにかの知恵を生み出したい.

📝パターン

📹宮台真司×荘子it 『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』刊行記念トークイベント #

宮台真司×荘子it 『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』刊行記念トークイベント - YouTube

ぼくはパターンの認識が好き. 映画の形式にもパターンがあるし, ぼくが1番注目しているのは世界観のパターン. 小説, マンガ, 哲学, 思想. パターンの引き出しと組み合わせを分析.

パターン化してみるという訓練を中学高校からずっとやっているので, パターン認識のレパートリーが豊富な自信はある. どんな難しい思想も, パターンに当てはめるとこういうパターンだというふうに説明できる.

📚終わりなき日常を生きろ 宮台真司 ちくま文庫 #

大学1年生のとき(2006)に読んだメモかな?

ぼくには宗教か、恋愛か、自殺しかない<2006/10/01> #

<2006-10-01 Sun 03:22>

かなり、ためになる。そうか、ぼくには宗教か、恋愛か、自殺しかないのだ。よし、恋愛にしよう。さて、どうすればいいのだろうか。しかし、ひどい時代になってしまったものである。なにが良いのかわからない、すなわち、どう生きればいけないのわからない時代なのだ。いやな時代に生まれたものである。受験で勝つことがよい時代は去った。ぼくはついちょっとまでそれを信じていたのだが、今は完全に冷めてしまった。これからぼくはどうすればいいのだろうか。この本で取り上げられている問題は、ストレートにぼくの心を打つ。

Literature Notes #

宗教というものは大きく分けて二つある。ひとつは「幸せになりたい!」というタイプの「行為的宗教」、もう一つは「ここはどこ?わたしはだれ?」というタイプの「体験的宗教」。前者は、このままでは幸せになれない、と思うときに常識的な手段に変わって、呪術や超常的手段が登場する。しかし、この手の宗教は、顔がよければ、頭がよければ、お金があれば、別に必要ない。後者は、世の中に存在する自分の意味に悩むものに、「世界の意味」を取り戻させる。これにも「修養系」と「覚悟系」の二種型がある。修養系は、辛い出来事があるのではなく、辛いと感じる境地があるというだけだという類。修行を積んで世の中を違った仕方で見られれば、世界は再び輝きを取り戻すというわけだ。覚悟系は、世の中はすべて宿命づけられた、その中で自らには神や教祖から与えられた使命があるという類。使命を自覚すれば、世界は再び輝きを取り戻すというわけだ。


わたしたちの社会には、「良き人間でありたい」「良きことをしたい」と望む人間が多数存在する。しかし、そのような人間こそが、さて良心とは何か、道徳とは何か、という問題に直面し、「これは善業、これは悪業」とあたかも父親のように断言する麻原彰晃に、ゴーマニズムの小林よしのりに吸引されるようにして引き寄せられる。結局、多くの父親に「内的な確かさ」を等しく与えるもっと大きな父親、すなわち一神教的な「父なる神」、もしくは父親に「外的な確かさ」を与える、彼を背後で守る「世間という共同体」が必要なのである。


神なき社会で共同体が崩壊するとき、わたしたちは「輝かしき共同体」の幻想に踊らされ、空白になった良心の場所に「偽者の父親」によって「良いこと」を植えつけられる。「終わらない日常」に耐えかねて「輝かしきハルマゲドン」を夢想し、きつさに耐えかねて「夢想を現実化」しようとする。ところが歴史の教訓は、残念ながら、それでも結局は「終わらない日常」が勝利するというところにある。

結論を言おう。わたしたちに必要なのは、「終わらない日常を生きる知恵」だ。「終わらない日常の中で、なにがよきことなのかわからないまま、漠然とした良心を抱えて生きる知恵」だ。「永久に輝きを失った世界」の中で、「将来にわたって輝くことのありえない自分」を抱えながら、そこそこ腐らずに「まったりと」生きていくこと。そんな風に生きられる知恵を持つことが必要なのだ。「終わらない日常」を生きるとは、すっきりしない世界を生きることだ。なにがよいのか悪いのか自明でない世界を生きることだ。私たちが今日生きているのは、すべてが条件次第・文脈次第で評価されるしかないような複雑なシステムである。にもかかわらず、条件や文脈は不透明だから、なにが良いのか悪いのかが、よくわからなくなってくる。そういう混沌とした世界の中で相対的に問題なく生きる知恵が、今必要とされているのだ。いいかえると、複雑なシステムで、「相対的に」自分に損にならないように、あるいは「相対的に」他人に危害を加えないように生きるには、どうしたらいいか、という「共生のための知恵」のことである。


以前は、将来科学者や官僚になることは輝かしかった。だから、将来が輝かしければ、受験勉強にも意味があった。しかし、現在は、勉強していい大学に入っていい会社に就職したけで、科学者も官僚も医者も別にどこも輝かしくないし、それで「女にはもてないは、友達の輪には溶け込めないわ」ってことになると、フリーターでも「女だ。パーティーだ」って楽しく暮らせる時代なんだから、悲惨だ。

だから、分極化がひどい。わかってるやつらは、がきのころからバイトしたり親父とやったりして、その上でコミュニケーションを作っていくから、けっこうレベルが高い。けど、何も知らないで、ボーっと塾に通って、上の学校に進学して、会社入ってなんてのは、後になってからどうしようもなくなってしまう。そういう奴は、出世だって遊んでいた奴らにおいてかれたりする。

結局それが、茶髪でピアスのブルセラ女子高生たちと、新興宗教に入信しちゃう人たちの、決定的な違いだと思う。そういうきつい人たちが宗教に吸引されないでもやっていけるためには、もう恋愛しかない。


「終わらない日常」を永遠に戯れるにも、コミュニケーションスキルが必要になる。幸せや不幸の原因が「外的制約」(貧困、地震とか)に帰属できなくなり、ひたすらコミュニケーションの失敗による「内的制約」(もてない、いじめられる)ばかりが問題になるような社会こそが、「終わらない日常」なのだ。「日常の終わらなさ」を忘れて生きようとすれば、いろいろな物語や装置が必要となる。そうしてニーズに応じて、八十年代には特殊なサブカルチャーが登場し、特殊な宗教ブームが始まった。

「終わらない日常」の中を、欠落を抱えたまま生きなければならないとき、そういう自分を「全体として」肯定できるチャンスは、宗教と性にしかない。

📚世紀末の作法 宮台真司 メディアファクトリー #

大学1年生のとき(2006)に読んだメモかな?

Literature Notes #

東大生の中には、いい大学に入れば幸せになれる、といった抽象的な動機で受験勉強をしてきたものの、いざ大学に入ったらなにを勉強したらいいのか、どう人間関係を結んだらいいかわからず、学生相談室に駆け込む学生が例年のようにいる。官僚になることイコール社会のためになるといった抽象的な図式ををぼくに信じている、つまりそういう素朴な「意味づけ」なくしては、受験動機や勉学動機を正当化できないのである。

人とのコミュニケーションがうまく取れなくても、まったくの抽象的な動機だけで官僚になっても、彼らは東大生であるという理由だけで、今まで許されてきた。だが、それでは困る時代にわたしたちは差しかかっている。東大生には通常以上の倫理観があり、なんだかんだいっても期待されがちだ。だからこそもっと論理的な相対化能力を習得し、異性と付き合うスキルを鍛えてもらわないと、わたしたちは奇形的存在をエリートに抱くことになってしまうだろう。そんな連中に政策立案をゆだねることは、少なくともわたしは願い下げである。

いまどきの教室内は、ストリート系・オタク系・中間系と大まかに三つのタイプに分かれる。中間系は、部活や授業に幸せ家族に生きる古典的タイプだ。だが、現在では学校や家を居場所にしようとして、かえってきつい状況に陥っているのである。その点、ストリート系やオタク系は、街や仮想現実など第四空間に居場所を見つけてリラックスする。また、大学では、本を多読し、哲学の知識に卓越するような、昔だったら尊敬されるタイプの学生は、同級生から「ヤバイやつ」と敬遠される。

人はだれでも、自分で選べないものを背負って生まれてくる。自分の親を選べないし、容姿や器量、頭のよしあし、もちろん性別だって選べない。なぜか人はこれらを「端的に押し付けられた所与性」として背負っている。わたしたちの近代社会は「人間は平等だ」といった具合に、こうした「端的なもの」を巧妙に覆い隠してきた。その先兵が「学校」だ。だが、近代が成熟するにつれ、イデオロギーによって覆い隠されていた「端的なもの」が露呈し始めた。そうすると、学校や家庭は懸命に端的なものを覆い隠そうとする。そんななか新新宗教ブームが沸き起こった。多くの若者が、露呈した「端的なもの」に孤独に向き合い、それをどうやって受け入れるべきか悩むようになったのに、だれも教えてくれない。何で自分はこんな自分なのか。「ウソ学校」や「ウソ家庭」が決して教えてくれない問題に、新新宗教は正面から答えてくれるのだ。単純な人は、ここで「道徳」を持ち出して、そういう若者たちを批判するだろう。小林よしのりのような連中のことだ。しかし、もともとこの社会を「ウソ社会」だと感じている連中に対して、「ウソ社会」を維持するための「道徳」を説教しても仕方がないことだ。

社会が複雑になればなるほど、わたしたちの感覚や想像力や知の可能性は遮断してしまう。わたしたちは、なぜそのような可能性を遮断してまで、社会を営まなければならないのか。昨今では、街の記号に溶け込むコギャル的な作法が広がる一方、バーチャルな繭の中でまどろむオタク的な方向も広がって、若い連中が二極分解している。だが両方とも現実の中での「名前」を捨てる「わたし消し」「自分消し」という点で共通する。しかし、そうやって多くの人間が都市的空間やバーチャルな空間の中で、「端的なもの」を忘れてまどろむようになっても、「まどろめない自意識」を抱える人間が消えないで残る。そんな人たちが自意識のくびきから逃れる道はあるのか?わたしの考えでは、徹底した明晰さの中にしかありえない。自意識を成り立たせている関係性を手繰りよし、世界に存在するあらゆる逆説を引き受けて、防衛的な実存を乗り越える以外にないだろう。もし仮に、社会を成り立たせなでればならないのだとすれば、こういう「まどろめない自意識」を抱える連中が、徹底した明晰さの中で、システムを設計したり評価したりするという課題を背負うしかない。しかし、そのときにも、「なぜそこまでして社会を成り立たせなければいけないのか?」という問いは、やはり解かれずに残ってしまう。「どうせ終わるんだからなにをやっても同じだ」。そういう物言いに対して「何か違う」と感じる。いったいなぜなのだろう。それを徹底して明晰な言葉にできたとき、明晰さというきつい道を選んだ人間が「社会を成り立たせていく」という倫理を背負う理由について語れるようになるのだろう。

🔖サイファ 覚醒せよ! 宮台真司 速水由紀子 #

この世界が生きるに足る価値を持っているのか、なんて判断は、感性や体験が左右するものです。だからこそ、この社会の内側には準拠しない、第四の帰属という概念が必要になります。つまり、この世界で生きることを自明のこととして社会の外側から動機付けてくれる、無条件の理論的な受容とか承認です。自分、家族、会社にもう一つというわけです。

ほんらいはいテクノロジーがこれだけ発達している日本に、それを包含する思想や哲学が根付いていないことは、テクノロジーと知識偏重の社会的な混乱状況をひきおこしやすい非常に危険な状況といえますよね。そこで今必要なのは、理科系の人間も文科系の人間も共通して思考の最上位概念とできるような、総合的な思考の道筋です。これを「第四の帰属」として考えたいのです。第四の帰属をもたないと、人は簡単にマインド・コントロールされます。そうなってくると、東大以外に選択肢がありうるにもかかわらず、単に成績がいいという、実存とは関係ない理由のために東大に行ってしまう。また、模試の成績がすべて、実存的な自尊心のあり方まで決定してしまう。

小林よしのりのような馬鹿が、パブリックつまり公の概念をまったく理解しないで、日本人には公がなくなったなんてホザいてるけど、こりゃお笑いなんだね。結論から言うと、パブリックを共同体のことだと考える小林よしのり的な見方は近代社会では非常識そのもの。どこの先進国でも常識になっている近代釈迦印パブリックとは、異なる共同体に属する人たち、あるいはどの共同体にも属さない人たちが、互いに侵害しあわないで共生するための、ルールや想像力の領域のことを言います。だから、僕の主張は「リベラリズム」、すなわち「成熟社会では、他者の権利を侵害しない限り原則としてなにをしてもかまわない、とする共生原理こそが価値として選択されるべきだ」というわけ。

科学が世界を説明できるようになればなるほど、実はその説明事態によっては説明されない「端的なもの」が可視的になってきてしまうわけです。「端的なもの」は、忘れるか、受け入れるしかありません。受け入れる場合には、無害なものに加工して受け入れるんです。そこに宗教性が巣くう。実際には、無害化に向けた加工は、「神」概念のような「世界」の内側と外側に同時に属しうる「特異点」の導入によって図られます。日常はだるい。だから、このくそ面白うもない社会を、何とかしてブレイク・スルーしたいわけだ。だから、必死に本を読んだり、別の意味があるんじゃないかと意味にこだわることによって、だるいこの社会の向こう側に出られるんじゃないか。「ここではない、どこか」に絶対いけるはずなんじゃないかと思うから、そういうふうにやっているわけです。

「端的なもの」に出会っているとき、僕たちは例外なく、「社会」の中ではなく、「世界」の中に、自分自身を見出しているということです。そこに、高尚も低俗もありません。

一貫した物語、正確に言えば、論理的に無矛盾な記述で、世界の全体を覆う(完全に記述すること)はできない。これが「ゲーデルの不完全性定理」の本質的な意味なんです。一貫した意味で「世界」は完結していない。「世界」には外がないので外に向けて開かれていることはありえませんが、しかし「世界」は「記述の解釈」という項を内蔵することで、「世界」が「世界」の中に向けて開かれているという、根本的な性質があります。つまり「世界」は原理的に未規定性を孕まざるをえないということです。ということは「世界」の全体が本質的には未規定なのだということなんです。にもかかわらず、私たちは、規定されたものが存在するという前提で(たとえば、「意味が通じる」とか「感覚を共有する」とかという事態が存在するという前提で)コミュニケーションを素材として成り立つ「社会」を営んでいます。こうした規定されたものから成り立つ「社会」の中から、たまさか本質的に未規定な「世界」が見れて「しまう」場合、それが「名状しがたい、すごいもの」として現れている、という構造になっているわけです。しかし「社会」の中に「たえず」未規定な「世界」が介入するようでは、そもそも規定されたものから成り立つ「社会」はありえなくなります。そこで「社会」の随所で露呈しうる「世界の未規定性」を、いわば一ヶ所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点として表象する。この特異点を社会システムの理論では「サイファ」(暗号)といいます。「サイファ」は、「世界」の内と外に同時に属する特異点といえます。これは、典型的には、「世界」の創造者としての「神」といった形をとりますが、その結果「神」だけが未規定性を一身に体現する代わりに、いわば毒を吸収する代わりに、「世界」の残余は未規定性を免れることになるわけです。

昔は、「世界」と「社会」が未分化でした。ところが、社会が複雑になりますと、コミュニケーション可能なもの(人)とコミュミケーション不可能なもの(もの)の区別が導入され、「世界」から「社会」が分出されます。そうすることで、「社会」(コミュニケーションの全体)は「閉じる」ことができます。そして、押し出されたサイファは、特別なものに変化します。

「サイファ」は「超越論的なもの」に相当すると言っていい。理解可能なのに回答不可能な問いの領域を含む、未規定性がそうです。(「世界」はなぜあるか?という問い)。この状況を何とかするには、普遍宗教がもっと優れたたとえ話を作るか、「サイファ」をできるだけ正しい原型のまま提示するしかない。宗教については、「行為的宗教」(幸せになりたい)と「体験的宗教」(私は誰?)の二つの道があるが、実は第三の道がある。それは、

突発的な「名状しがたい、すごいもの」への感染を手がかりにとして、徹底的に論理的な思考によって各宗教ごとに固定されがちな「サイファ」を逆変換し、「世界の根源的な未規定性」に到達すること。

そのことによって、失われた「世界」とのかかわりを取り戻すと同時に、「名状しがたい、すごいもの」への感染に対する理論的再解釈で、「名状しがたい、すごいもの」への感染を他者による洗脳やマインドコントロールに利用されないよう防波堤を築く。

僕たちが生きる社会に対応する「現代的宗教」においては、聖別された「否定の図式」(美/醜、善/悪)があらゆるコミュニケーションに適応可能だという信頼が失われ、社会の様々な領域に、「サイファ」とは無関係な、自己言及的にとじたサブシステムによって維持される自己準拠的図式が支配するようになる。私個人は科学哲学こそ、もっとも多くに人々にとって受け入れやすく必要な道だと思っているんですが。今、物理学は大統一理論に向かっている。それに平行して全てを説明できるような形で、世界で行われつつある哲学の作業を「サイファ」への道と定義したいんです。少なくともそこにはグルは存在しないし、間違った教義も世界の解釈もありえない。物理学な現実世界と、さらに自分と世界の関係性の、もっとも正確な淡々とした解釈だけが、ここでは重要なんですから。「じゃあ、いったいそれは誰がやっているの?誰の論を基本にすればいいのか?」と言われたら、それはもう個人の体感として、「最も普遍に近いと考えられる概念体系」を把握していくしかない。つまりもっとも性格にニュートラルに、この世界の実像を俯瞰し、自分との相互関係を導き出す作業が必要なんです。哲学、科学、経済学・・・と自分の領域だけでなく、もっとマクロな視点と、自己にまでひきおろすミクロな視点が必要になる。

科学者にやるべきことがあるとすれば、多様に現存する宗教的な「サイファ」を、逆翻訳して、「世界の根源的な未規定性」に差し戻す作業じゃないかな。ところで、そうした逆翻訳の作業自体は、すでにいくつか紹介したように、優秀な自然科学者たちによって先鞭がつけられています。ただ、注意するべきことは、欧米の科学的伝統においては、科学者が「サイファ」の逆翻訳に手を染めるのは自然な流れであると言うことです。逆にいえば、日本にはそういう伝統がない。日本は後発近代化国ですから、科学が国力増強のために国家的に動員された結果、理学よりも工学重視の伝統です。この伝統は「正しい」かどうかより「役立つ」かどうか、あるいは「真理性」よりも「利便性」が重視されます。西洋近代科学の伝統はまったく別で、「真理性」を追究します。それは科学的探究の動機が、完全なる神のみわざを知ることと結びついていたことに関係します。かつては科学の発達で、宗教的な迷妄が諭されて、人々が正しいこと認識するようになる、と単純に考えられました。言い換えれば、「世界」についての因果的認識が発展すれば、信仰は不要になるだろうと考えていたわけです。マルクス主義者もそう考えました。ところが、だんだんと因果性による宗教性の排除がありえないことがわかってきた。なぜなら、因果性のついきゅうこそが「たんてきなもの」を、「世界の根源的な未規定性」を露呈させてしまうからです。端的なものに直面すれば、人は宗教的にならざるをえないのだ。この「世界」が存在するという端的な事実に驚倒し、それが科学的探究を動機つけてきたと言っていいでしょう。科学的探究の動機付けが「真理性」にあるとはこういうことで、そうした実存的な根の部分では、科学は宗教を、逆に、必要とするのです。(similar)

人間ひとりひとりがここに生きているという事実は、「奇跡の中の奇跡」、というわけです。自分はサイファなのです。

「世界の根源的な未規定性」に関する振る舞い(それを覆い隠したり解決しようとしたりする振る舞い)は、人間の歴史とともに長く長く続いてきました。それは多くの場合「宗教」という形をとり、ごく最近になって、特別な地域の特別な宗教的伝統の延長線上に花開いた「科学」という形をとるようになりました。その結果、僕たちは「問題を解決する」ことはできず、「問題を設定を理解する」ことしかできないことが明らかになってきました。

しかし、それでいいのです。なぜなら、未規定性の問題設定を理解する行為、言い換えれば「サイファ」を逆変換して相対化する行為は、それ自体が世界の根源的な未規定性、すなわち「名状しがたい、すごいもの」へと開いてくれ、「世界」を豊かに体験させてくれるからです。そこでえられる豊かさは、特定の「サイファ」を推奨するがゆえに排除的となる「異端狩り」を必要としません。その意味で「共生原理」を両立する「世界」豊饒化に向けた戦略なのです。


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