📚江戸前で笑いたい - 高田文夫(2001)

📚江戸前で笑いたい - 高田文夫(2001)

Literature Notes #

談志はこのんで「寒さとひもじさ」を語る。古典落語を現代人、とくに若い連中が理解しがたいのは、この二大辛苦を知らないから。それに加えて、「暗さ」。

かつての練り上げられた言葉と話芸、人間心理の深くて細やかな洞察、噺家たちの粋で無法な生き方、素人離れの頓知の才・・・・それがなくなった。テレビ時代になり、大衆の笑いの感性とレベルが大きく変化した。かつてのゆるぎない価値であった「完成度」「きめ細やかさ」「粋」「玄人芸」はすべて不必要になった。

主人公の番頭はまじめで仕事ができる中間管理職だ。でも、気は小さい。主人から「もし若旦那が死んだら磔の刑になる」と脅かされてパニック状態になる。それからみかんを見つけるまでの苦労と暑さのせいもあって価値観が喪失し、最後はみかんを持って逃げる。そこへ追い込まれるまでの心理描写、真面目で小心でゆえに横領してしまう男の悲劇。

「落語とは、世の中の、片隅に押しやられた真実、人情、輪刷られた義理、情操、ゆがめられた概念、その他あらゆるガラクタを、落語流哲学と言うべき光で照らしだし、人々の前に押し出すものなのだ。そして、それは、かならず聴くものに、共感されなければならない。つまり、現在聞いている人々の、現在の問題でなければならない」

「その時代にのみ生きる大衆芸能として、古典落語は、邪道を歩いている。新作落語こそ、落語の本道で、古典落語は、その枝道に過ぎぬ」(柳家ツバメ)

「落語とは非常識の肯定である」、これは「落語とは人間の業の肯定」の発展バージョンである。人間は常識に縛られていきている。常識とは無理をしている状態。本来、人間とは非常識な生き物のはず。常識で縛らないと社会が成り立たないのでそうしているが、落語の世界においてはその非常識を認めてやろう、またそれを語る落語かも非常識であるべきだ。

「落語はイリュージョンだ!」

「北朝鮮が攻めてきたって平気よ。この長屋は町内会がしっかりしているもの」 落語の形式をある程度理解している人々にのみ通用することであって、万人には理解されない。