📚全身落語家読本 - 立川志らく(2000)

📚全身落語家読本 - 立川志らく(2000)

Literature Notes #

東京落語の魅力は粋 #

東京落語の最大の魅力は粋である。客に笑ってもらうのではなく、客を笑わせるのだ。芸術的志向が強いのが東京落語。しかし本来、粋なんてものは大衆にわかるわけがない。粋は抽象的で微妙であり、世間から相手にされなくなる。現代は、今との接点を見いだし、それを前面に出して演じることが、現代において落語をやる最良の方法。

うまい落語はリズムとメロディ #

リズムとメロディが心地よいのがうまい落語で、それらがまずいのが下手な落語。ほとんど歌に近い。だから落語は聴いて覚えるのが一番効果的なんです。落語は歌なんです。だからどんなに噺家の個性が強かろうが、創意工夫がなされていろうが、肝心のリズムとメロディがまずいと、これは聞いていられない。大学の落語研究会のやる落語が聴けたもんでないのは、このリズムとメロディがなってないからです。前座のあいだはリズムとメロディの勉強に終始するべきだ。

リズムとは、上下、つまり目線を切るときの間であり、スピードのことだ。人物が瞬時にして入れ替わるときに妙な間ができないよう、スムーズに入れ替わらなければ、聴いているほうが気持ち悪い。声色を作りすぎると、リズムがとりにくくなる。声色を変えない代わりに、声のトーンを変えてみたりする。さらにテンポも人物によって変化させ、人物わけを明確にする。

つづいてメロディ。これはその落語家の口調であり、言い回しである。これは一朝一夕にできるものでない。

落語の魅力はデフォルメ #

それから、落語の魅力はデフォルメであるが、これは全体のバランスを考えてやらねば本末転倒になる恐れがある。私が思うに、話の中のキャラクターのその存在自体を強烈に面白くするのではなく、どんなやつなのかわかる程度のデフォルメでいいのではないか。

ドタバタ喜劇的なものは、淡々とやればやるほど面白い。ドタバタ喜劇の鉄則だ。一流のコメディアンはへんてこな顔をして笑いをとろうとはしないし、オーバーなアクションもしない。とにかく淡々とずっこけて笑わせる。

娯楽の多様化した現代ではリズムだけでは物足りない。そこでデフォルメや現代アレンジが必要になってくるのだ。

落語のリアリティ #

つぎはリアリティ。結論から言うと現代では落語におけるリアリティはそれほど追求する必要はない。ある程度は必要だが、それよりも演者の作品自体への印象のほうが大事だ。微にいり細を穿ち徹底的に描くよりも、登場人物の生き様を演者がどう受け止めるかが勝負になってくる。

落語は噺の設定が昔である。だからこそ、現代との接点を見いださなくてはたんなる昔話になってしまう。設定は昔だが、登場人物が現代の感覚を多分に持つことではじめて現代に生きる権利をもてるのだ。古典、つまりクラシックとはそういうものではなかろうか?その時代を生きていてこそ、クラシックは価値がある。だから、落語を語る落語家には十分な現代感覚が必要になってくる。

または、極端なはなし、個性が強烈であれば、仮に現代性が無くても個性が現代性を凌駕して、面白い落語家になってしまう場合もある。

大事なことは噺の本質をとらえること #

落語をやる場合、大事なことは噺の本質をとらえることだ。それができてから、登場人物の生き様に迫っていく。「元犬」は動物論、「粗忽長屋」は人間の生死、「青菜」は暑さにぶち切れた植木屋の異常なまでのブルジョアに対する憧れ、「天災」はいわゆる洗脳、「疝気の虫」は現代医学の限界、「たちきり」は愚かな男女の悲劇、「芝浜」は理想の夫婦は偽善的であっても夢物語を提供してくれる、云々。

ref. 🎓ロジックで分解しキモをえぐり出す

恐怖の中の笑い #

恐怖の中に笑いがある。なるたけリアルに描き、観客をある程度恐怖の空間に誘い、そして徐々に笑わせる。この方法が最も効果的だ。

人情噺に笑いを入れるべき #

現代において古臭いドラマである人情噺で観客を魅了するには、笑いを入れるべきである。現代人はもっとすごいドラマを知っている。笑いを注入することによって、話の世界に誘い込み、この世界によってもらうのが現代において最高の演じ方だと私は思う。談志ほどの人生観や、円生ほどのテクニックがあればおよびでない。


現代は、悲惨な事実が情報としてあふれている。「子別れ」なんて屁みたいな話がいくらでもある。「子別れ」ごときを得意な顔をしてジメジメやっている場合ではないのだ。こういった話で聴くものを感動させるには、笑いをたくさん提供してそして少々ホロッとさせるのが一番効果的だ。そうしないと、現代の客はこのレベルのお涙頂戴の話にはついてこない。このことは人情話全般に言えることだ。まず笑わせることである。

落語は人間の業の肯定であるの志らく師匠解説 #

「落語は人間の業の肯定である」といったのは談志である。どういう意味かというと、人間は弱いものだ、眠くなれば寝ちゃうし、食いたければ食っちゃう、勉強しろったってやだと思えばやらない。こういった人間の業を認めてやるのが落語ってこと。これらの業を克服する、つまり人間はがんばれば出世できる、だから努力しなさい、というのが芝居であり映画である。落語はどうせがんばったって無理だよ、がんばって出世できるならするけど、才能のある奴や金持ちにはかなわないだろ、ってのが落語。努力しないでいいといっているのではない。人間って所詮はそういうもんだろ、ってことを言っているのだ。そう思って落語を聞いてみると、なるほど、全部そうなのだ。

落語はイリュージョンであるの志らく師匠解説 #

さらに最近、談志は新たな説を発表した。それは「落語はイシュージョンだ」!人間は元来非常識なものであって、放っておくと非常識になってしまうので常識をこしらえて社会を築いた。だけど落語の中ではこの非常識を認めてやろうよ、会話一つとってももっと訳のわからないことをみんなで言っているじゃないか。らくごってそういうわからないイリュージョン的なものじゃないかと。

博物館的な落ち #

説明をしなければわからないような落ちは、本来ならやる意味がない。説明してでもやるというのなら、その作品は現代に生きる作品ではなく、博物館行きの伝統芸能であると認めることになる。

学校寄席はただちに廃止すべし! #

学校寄席はただちに廃止すべし!

初めて学校寄席で落語を体験するのですぞ。ここで聞いた落語こそ、彼らにとっては全てなのだ。もし、つまらないと感じさせてしまったら、どうするつもりだ。下手をするとその子供たちは生涯落語を聞かないかもしれないぞ。「学校寄席で落語を聞いたことがあるけど、落語ってつまらないねぇ」ってなことになりかねん。

だいたい、学校で催すものに面白いものがあるわけないと子供は気がついている。だからこそ、学校寄席をやるのであれば、芸人として勝負のときだと覚悟してやっていただきたい。「どうだ、落語って面白いだろ、凄いだろ!」って連中に思わせなければダメだ。

ほかの話題 #

黄金餅こそ、江戸落語の真髄。江戸落語のポイントは粋、わび、さびといわれているが、それら以上にこの陰の占める要素が大きい。江戸落語の名人を思い浮かべて御覧なさい。志ん生、文楽、円生、小さん、談志、皆陰気である。江戸落語は陰気の美学なのだ。笑いイコール陽気といったイメージがあるが、なになに、上質な笑いは陰気から来るものが多い。陽の笑いはナンセンスが中心であり、瞬間的な笑いの量は多いが、残るものが少ない。

お人よしは決して善人ではない。どちらかというと社会にとってはなはだ迷惑なやつである。

吉原の話は現代の人間にはわかりづらいなんてのは演者の逃げ。吉原の様式美を現代に伝えるのが落語家の第一義の目的ではない。演者の魅力と噺の内容でどうにでもなる。

愛宕山は、内容だけ見れば薄っぺらいものだが、落語の美学のかたまり的作品なのである。美学とは、落語の中における情景描写を主とする演ずるうえでの形式のことだ。話のテーマや本質とは関係ない。落語が娯楽の中心もしくは、大衆のための演芸であった時代ならまだ許せたが、いまや落語がマニアックな娯楽となったので、こんな美学を掲げていては、新しい世代の魅力は得られない。

与太郎は決して精神障害者ではない。そう描いてしまうと与太郎の発する言葉が全部小さくなってしまう。与太郎の発言はあくまでも真理を貫いているものなのだ。

お稽古事なんてものははたから見ると異常なものに見えるものである。謡いを隠居が三人に教えるくだりを一種の狂気の世界にしてしまった。レッスンものはドタバタ喜劇にしてしまえばいいんだ。レッスンなのだから当然動きが重要になってくる。しかし、落語だから身体はたくさん動かせない。でも動かしていると客に錯覚させるぐらい言葉をスピーディに繰り出して、とどのつまりがドタバタ喜劇の世界を作り上げてしまうのだ。

粗忽者は江戸っ子のデフォルメなのだ。現代ではそんな江戸っ子はほとんどいないので、このデフォルメも共感できないのは当然。今後、粗忽者を演ずる場合、そこのところを考えて演じなければ世間からは相手にされなくなる。はっきり言って、粗忽者を昔のスタイルでのんべんだらりとやっているやつはバカだ。