🎓克己凌雲思想展開

🎓克己凌雲思想展開

次の文章は僕が高校の卒業文集に載せたものだ. そっくりそのままupする.

僕が高校生のときに考えていたことがすっきりとまとまっている. 今読み直してみると, 躁病にかかっているようだ. こういうのを心理学用語では「べき思考」「白黒思考」というらしい. こんな考えをしていたからうつ病になってしまったのだ.


克己凌雲思想を知っているか。知るはずもない。僕が自分で作った四字熟語だからだ。しかし、先哲の叡智に劣るとも勝らぬ大思想だ。

概略を説明しよう。それには、僕の体験した思想の放浪記を振り返る必要がある。僕はニヒリズムに直面した。高校に入ったが、思った以上に自分のしたいことができない。時間に非常に執着心を持った。すると、あれもこれもそれもどれもすべてが無駄に思えた。さらに、くだらないたぐいによって起こる「自己の喪失」を発見し、それに嫌気が差した。たとえば、どこかから聞こえる話し声を聴いている瞬間、自分はどこへ行ってしまうのか。自分が自分の中にいないではないか。これは苦痛である。一方、たとえば音楽を聴いている場合も自分がいなくなる。しかし、これは苦痛ではない。この違いはどこから生じるのか。前者では自我の対象が外からの介入で無理やり決めさせられるのだ。ところが後者では自我の対象は自分で決められる。それはうれしいことだ。

この二項対立が自分の内側で連続的に起こっている。この営みが人間的感情を生み出し、時節の行動を決定する基本原理だ。(ほかに無意識の存在も気になるがやめとく。)

まあ、ここまでの理屈は当たり前といってはそれまでである。さあ、ここからが克己凌雲の真骨頂。

外からの自我への介入は止めることができない。我慢しよう。あきらめよう。それしかない。

自我の対象が引きを左右するのなら、その対象が問題だ。およそこの世にあるものが価値あるかどうかを決める決定権は自分にあってよいはず。ならば、凌雲の対象に価値を見出すのみ。それと一体となる(音楽に身を任すように)時こそ自分が幸福となれるよう自我を向けるのだ。そのためには、ややもすると瑣末なことにとらわれる己に克つことが肝心要である。これぞ克己凌雲の思想。

しかし、僕も生物である。生物は本能によって行動するものだ。そのよしみでどうしても本能に打ち克つことができない。なので克己凌雲とは不可能な挑戦でもある。

福沢諭吉はいみじくも言った。「人生は芝居の如し」高すぎる野心、本能への無謀な挑戦はどこかでゆきづまることを読書を当して知っている。だから、自我は人生という喜劇の中で克己凌雲を志す役を演じさせておけばよいのだ。もちろん演じているほうは必死である。しかし、演じているほうは人生は喜劇という大きな枠組みを心のどこかで自覚する必要がある。それが克己凌雲の実現において必須なのだ。(凌雲のイメージを得るにはベートーベンの交響曲第七番第四楽章を聴いてほしい。譬えが藪から棒だが、一番好きな曲なものでつい・・・。)

この克己凌雲思想、わかってもらえただろうか。在校生もとにかく万物の(人類の叡智も然り、朝礼も然り)価値を吟味し、真に価値あるものへの驀進が大事だ。(ほかは適当に対処)

僕としては、物理や思想の発展に興味がある。自然や地球に興味がある。また、芸術(それは人間的であるため)にも興味がある。最早、受験勉強どころではない。


ref. 🦊DarkFox


Backlinks