🎓青年期の実存的危機
- up: 🏛虚無
- ref: 📝シーシュポスの神話 - アルベール・カミュ
- info: written at <2006-12-30 土 01:12>, from 🦊虚無との戦い.
「ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四年間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、・・・こういう道を、たいていの時はすらすらと辿っている。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠の中ですべてがはじまる。」
ぼくは同じような体験がある。 高校三年生の秋、僕は、いわゆる、青年期の実存的危機に陥っていた。 それはある日、嵐のように突然やってきた。一日にして、今までの世界観がひっくり返された。
自分の見えるものすべては、偽者であり、幻想であり、頭が作り出したものであり、つまり本物でない、唯一確実なものなんて何もないんだ!・・・という考えが、頭を支配してしまったのだ。自分の存在すら、信じられなかった。自分が、今ここ、に存在することが不思議でたまらなくなった。むしろ、自分の存在が嫌だった。存在することの苦痛に耐えていた。
突然、世界が異様なものとして、目に映りだした。こんなに奇妙な気分になったのは、あとにも先にも、このとき限りだ。
そのとき、倫理の教科書に載っていたのが、このシーシュポスの神話だった。
「シーシュポスの罰は、山の上から転がった大きな岩を頂上まであげることである。ところが、その岩はあげたと同時に転がり落ち、その繰り返しが永遠に続く。これがシーシュポスの人生である。 カミュは、人生とは多かれ少なかれシーシュポスの罰のようなものであり、わたしたちの存在は、何の必然性もなく、この世に生れ落ちる不条理の中にあるという。かれによれば、この不条理に向かい、人生は生きるに値するかと問い続けるのが哲学である。」
この文章がそのまま、ぼくの感触と共鳴した。また、ティッツアーノの挿絵も印象的だった。 「そうだ、この世は不条理、ぼくの存在も不条理、ぼくがここにいることに意味なんてないんだ。僕は不条理にもこの世に生まれ、不条理にも死んでしまわなければならない。そして、永遠に生き返ることはできないんだ。」 そう思った。それがぼくの哲学との出会いだった。思えば懐かしく、また、初々しい。
虚無主義の本質は、反復と量にある。ぼくの人生はむなしい。虚無だ。毎日の単調な生活がむなしい。 そこで、この本は、そんな生活を楽しめと説く。この日常に意味なんてないんだ。この不条理の人生を生きなければいけないんだ。そういうことを理解して、それでも自分の人生を肯定して生きることのすばらしさを訴える。 永遠の繰り返しの中で、シーシュポスは麓に戻るふとした一瞬に、周りの景色を見て、幸福感に包まれる。繰り返される単調な日常のほんの一瞬に、幸福は含まれている、そういうことを訴えてくる。
ぼくは、ずいぶん励まされた。