📝シーシュポスの神話 - アルベール・カミュ

📝シーシュポスの神話 - アルベール・カミュ

大学生のときの写し書きメモ #

学生当時の所感: 🎓青年期の実存的危機

真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのだ。それ以外のことは、遊戯であり、まずこの根本問題に答えなければならぬ。そして、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか、納得できよう。

ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四年間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、・・・こういう道を、たいていの時はすらすらと辿っている。ところがある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠の中ですべてがはじまる。《はじまる》これが重大なのだ。機械的な生活の果てに倦怠がある、が、それは同時に意識の運動の端緒となる。意識を目覚めさせ、それに続く運動を巻き起こす。それに続く運動、それは、あの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰か、決定的な目覚めか、そおどちらかだ。そして、目覚めの果てに、やがて、結末が、自殺あるいは再起か、そのどちらかの結末が訪れる。とりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼくらをいつも同じように支えている。だが、ぼくらの方で時間を支えなければならぬときが、いつか必ずやって来る。

いかなる美であろうと、その奥底には、なにか非人間的なものが横たわっている。かなたに連なる丘、空の優しさ、木々のたたずまい、・・・それらが、まさしくその瞬間、ぼくらから着せかけられていたむなしい意味を失い、もはやそれ以後は、失われた楽園よりもさらに遠いものとなってしまう。

生の純粋な炎以外のいっさいのものに対する、あの信じがたい無関心、・・・そう、実にはっきりと感じられよう、こうした状態においてこそ、死と不条理とが、妥当な唯一の自由の、つまり人間の心情が経験し生きることのできる自由の原理となるのだ。こうして不条理な人間は、炎と燃え上がりしかも冷たく凍った宇宙、どこまでも透明でしかも限界のある宇宙、なにひとつ可能ではなくしかもすべてが与えられている宇宙、それをすぎた先は崩壊と虚無にほかならぬような宇宙を垣間見る。そのとき彼は、このような宇宙の中を生きることを受け入れ、そこから力と希望の拒否とを引き出し、慰められることの決してない人生を執拗に証しようとする決意を固めることができるのだ。

重要なのは最もよく生きることではなく、最も多く生きることだ。同じ年数を生きた二人の人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受け取る側の問題ということ、しかも可能な限り多くを生きるということだ。そして、すべてを明晰に見分けているとき、価値のシステムは無用となる。どのような深さ、どのような感動、どのような情熱、どのような自己犠牲があろうと、四十年の意識的な障害と六十年にわたる聡明なまなざしとが、不条理な人間の目に等しいものとして映ることは、ありえないだろう。

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、あるや間の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂にまで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい刑罰はないと神々が考えたのは、確かにいくらかはもっともなことであった。

緊張したからだが、あらん限りの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目もの同じ斜面にそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力の果てに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下の方の世界へと転がり落ちてゆくのをじっと見つめる。その下の方の世界から、再び岩を山頂まで押し上げてこなければならぬのだ。彼は再び平原へと戻ってゆく。

こうやってふもとへと戻ってゆくあいだ、この休止の間のシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。彼の不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。彼が山頂を離れ、神々の洞穴の方へと少しずつくだってゆくこのときの、どの瞬間においても、あれは自分の運命よりたち勝っている。

この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。今日の労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、彼が悲劇であるのは、彼が意識的になるまれな瞬間だけだ。無力で反抗するシーシュポスは、自分の悲惨なあり方をすみずみまで知っている。まさにこの悲惨なあり方を、彼は下山の間じゅう考えているのだ。彼を苦しめたに違いない明哲な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもあるのだ。幸福と不条理とはひとつの大地から生まれた二人の息子である。

彼の努力はもはや終わることがないであろう。人にはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。少なくとも、そういう宿命はひとつしかないし、しかもその宿命とは、人間はいつか必ず死ぬという不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。

ぼくはシーシュポスを山の麓に残そう!ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重課を見いだす。しかし、シーシュポスは、神々を日手氏、岩を持ち上げるより高次の忠実さをを人に教える。かれもまた、すべてよし、と判断してるのだ。このとき以後、もはや支配者を持たぬこの宇宙は、彼には不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶一つ一つが、夜に満たされたこの山の鉱物物質の輝きの一つ一つが、それだけで、一つの世界を形作る。頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心を満たすのに十分足りるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わなければならぬ。


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