👨許光俊
クラシック音楽の批評家.
少しページが大きくなったのでちょくちょく分解したいところ.
📚Books #
もっと時間をかけてバラバラに分解して思想をタグ付けして自分の考えたことを付け加えて成熟させよう.
📚クラシック批評という運命 - 青弓社 #
江戸川乱歩は, あふれんばかりの残虐, 奇形, 流れる血, 病的な官能の夢想, グロテスクなものに対する偏愛をこれでもかと表現した.
<猟奇心>とは, なにやらわけのわからない不気味なもの, 美しいもの, 特別なものに引き付けられていく心のあり方である. 猟奇心を通じて, 日常世界の秩序の壊乱に接するのである.
どういう形であれ音楽が日常から逃れ去る方向を持つものだとしたら, 音楽は猟奇の気配を漂わせているに違いない. それどころか, そんな猟奇事件の中でこそ音楽は本来の力をはっきりして日常性を切り裂くことができよう.
猟奇と同じく, ロマン性もまた常識的な秩序への反抗である. ロマンティクはラテン的, 古典的価値観に対する異議申し立てなのであり, また文明と理性に対する, 夢想と不合理の夜の反撃なのだ.
📚世界最高のクラシック #
💡批評とはポルノグラフィーでありポルノグラフィーであってはならない #
以下, あとがきからの引用. どうも15年くらい前に読んだ文章を未だに覚えていたが本が見つからなかったので買い直した.
批評とは, ある意味ポルノグラフィーであって, 読み手を挑発し, 興奮させ, 対象への欲望の虜にし, 激しい欲求不満にうずかせなければならない.
その反面, ポルノグラフィーであってはならないのであって, 決まり切った, そして期待される終着点にたどり着くのではなく, 常に予想を裏切り, 読み手を不安定な宙吊り状態に置き去りにしなければならない.
すぐれた批評は, 読み手を新たな認識へと導くけれども, さらにすぐれた批評は新たな認識がまだ終着点でないことを残酷にも匂わす. そしてポルノグラフィーであることはまだそれほど困難ではなく, ポルノグラフィーであることを拒否するのは, それよりずっと難しい. 読みては当然のことながらポルノグラフィーを期待しているからだ.
💡クラシック音楽の芸能化 #
この文庫本からさらに年数のたった2022はもはや音楽ストリーミングサービスのサブスクの時代でYoutubeであれSpotifyであれマニアックな演奏家を選ばなければたいてい(海賊版も?)ネットできけてしまう. もう以前とは完全に別のビジネスモデルになりお金の流れも変わったんじゃないかな…
さらにコロナでコンサートも開けず…
二一世紀においてクラシック音楽界は加速度的に芸能化している… 心底うんざりさせられる. ものには限度があるだろう. 恥をしれ, と関係者にはいいたい.
そうなった理由の一旦はインターネットにもある. さまざまな演奏が無料で視聴できるようになったため, 若い世代はチケットやCDを買おうとも思わないようだ. このことは音楽文化のある一面を確実に傷つけている.
📚生きていくためのクラシック - 許光俊 #
私の生は, もう十分に退屈で, つまらない. 平凡で, 卑俗だ. 生が何が何でも生きるに値するものとは, どうしても考えられない.
もっとも, このような思いは, 死を真近に控えつつある人からすれば, 腹が立つほどの戯言だろう. 文明社会の都市文化に青白く咲く, デカダンなセンチメントに過ぎないであろう. とはいえ, 私がこのような思いを吹っ切れないのも事実なのである. 翻ってこう反論することも可能ではないか. 肉体的に生存することが困難でない状態にいるからこそ, 「生は生きるに値しない」という思いはいっそう純粋なのだと.
私が生きながらえている最大の理由は, なんとなく死が怖いからに過ぎない. そして, 生が何が何でも生きるに値するものとはどうしても考えられないが, 死が何がなんでも死ぬに値するものとはどうしても考えられないからに過ぎない.
それゆえに, 私は, そのつまらない生を, たとえ束の間であれ, 生きるに値すると思わせてくれるものを求めずにはいられないのである.
かつてチェリビダッケやヴァントが指揮するものすごい演奏に遭遇したとき, 私は心底, 「このようなものを聴けるのだったら, 生は意味がある. 豊かである. このようなものが聴けるとは幸福以外の何物でもない」と思い込むことができた. 彼らの次のコンサートを聴くまでは, 絶対に死ねないと思った. 愚かさと悲惨さにあふれた世界の中に, たとえごくわずかであろうとも, すばらしい驚異が存在すると信じることができた.
私にとって, 「世界最高のクラシック」とは, 生が生きるに値すると納得させてくれるものなのだ.
📚オペラにつれてって! 完全版 - 許光俊, 青弓社 #
恋や愛こそ何にもまして重大で価値があるのだ - こんな考えが現代には蔓延している.
現代社会は偏執狂的に愛にこだわっている. それはなぜだろう.
豊かになって恋や愛にうつつを抜かす余裕ができた, というのはひとつの理由だ. しかも, 愛=結婚, 愛=家庭を作る, ということではなくなってきている. 人によっては, 不倫関係を延々と続けるつもりになっている.
しかし, それだけではない. 思うに, 既存の宗教や道徳が説得力を持たなくなって, 権威が白々しいものになった今, 愛や恋は一種の擬似宗教の役割を果たしているのだ. 心の安らぎや充実を求める対象が, 神ではなく恋人, 愛になっているのだ.
そうなって考えてみると, キリスト教がウソっぽくなり, フォイエルバッハやニーチェといったさまざまな哲学者がキリスト教への批判を繰り出した 19 世紀という時代が, 愛を歌い上げるオペラの最盛期となったのはあまりにも当然である. 21 世紀の現代になっても, 基本的にはこの思潮が続いている. たぶん, 愛に完全に取って代わる新たな宗教が生まれない限り, これは続いていくはずだ. そして, 付け加えれば, まさしく今, 愛が滅びつつあるがゆえに, あるいは, 完全な愛など存在しないがゆえに, 各メディアはこぞってこれを貴重品として取り上げていることを忘れてはならない.
滅ぼしているのは何かって?
たぶん, お金, もっと正確に言うなら, 「底なしに柔軟な」資本の論理である.
📚オレのクラシック - 許光俊, 青弓社 #
大学生のときに読んでおそらく人生観に最も影響を受けてしまった本のひとつ(笑)
あとで精査して分解したい. 思想をタグ付けして自分の考えたことを付け加えて成熟させよう.
大学生活と優等生について #
note: このエッセイを読んで私も授業をサボりまくった.
オレの大学生活はつまらなかった.
面白い授業など皆無だった. 大学教員なんてたいしたことないやとなめていた. 周囲の学生もそろいもそろってバカばかりで, 相手をする気は全然なかった. オレの考えはこうだ. 本屋や図書館に行けば数え切れないくらい本がある. 単に勉強したいなら, 片っ端からそれを読んだほうが, 大学へ通うよりよほど手っ取り早い. 勉強などというものは自分でするべきものである. 人にあれこれ指図されてするようなものじゃない.
ただ, 優秀な人間からは刺激が受けられる. それは授業中だろうが飲み会だろうが, どこでもいいのであって, 必ずしも, 決められた枠組みの中である必要はない. もちろん, 大学でなくて一向にかまわない. 本当はソクラテスみたいに, 教室なんか必要じゃなく, 道端で立ち話でもいいのだ.
「大学がつまらない」「大学ってこんなものですか」といってくる学生はいる. 大体そういうやつらは, 人並み以上に優秀な連中だ. オレは「大学なんておもしろいわけないじゃん. 我慢するのを勉強するところだよ」と言ってやる. 大学をおもしろいと思うようでは, 人間が小さいし, きわめて凡庸と言うほかない. 要するに, オレが大学で働いているのは, 給料欲しさと同時に, 「学校なんてくだらないんだよ」と教えるためなのだ.
ついでに言うと, 俺は優等生が嫌いである. 毎回欠席しないで全ての授業を受け, ちゃんと勉強してテストでいい点を取る. こんなことをするのは
「この先生は優秀だ」「この先生はダメだ」「この授業はくだらない」「明日は休んでデートに行っても大丈夫」「この科目は大事じゃないから成績は C でもいい」
という何が大事何が大事でないかという自分の判断ができないからなのだ. 自分の判断で休む勇気がないからだ.
音楽批評のスタンス #
note: 大変わたしの価値観に影響を与えた.
オレの音楽評論の方法はきわめて明快だ.
いいものは褒める. つまらないものはけなす.
それだけ. オレはある演奏家のすべてを否定するということはしない. オレは, その演奏をけなしているのであって, 人格攻撃はしない.
オレは, 基本的には聴衆はバカだと思っている. バカと言うのがいいすぎなら, 理解力に乏しいといっておこう. くだらない演奏で, 大喝采する. 単に音がデカくて盛り上がるだけで, 歓声の嵐だ. 実に幼稚きわまりない. 盛り上がる音楽で興奮する. これは確かに音楽の楽しみ方の一つである.
オレの気に食わないのは, どうして喜びをそれほど露骨に表現するのかということだ. 満足したなら, せいぜい一生懸命拍手すればいいではないか. どうして罵声をあげなければ気がすまないのか. 自分は単純ばかだということを周囲に知らせているようなものではないか. こんな輩が多いから, とにかく盛り上げよう, 熱狂のおおやす売りが氾濫する.
オタク論と快楽主義 #
note: オレは快楽主義者だというフレーズにしびれる.
オタクにとって大事なのは, 情報, そしておのおのの情報間の差異だ. オタクはとにかく情報や経験を集めたがる. (何年録音と何年録音はここがちがうとか). 要するに, 情報を集めたり整理したりするのが面倒くさくてたまらないズボラな人間.
物をためこむのが嫌いな人間はオタクにはならないのである. 俺がいい席に座ろうとこだわったり, すごそうなコンサートが聴きたくて海外に行ったりなどは, これすべてより大きな快楽を求めてゆえにほかならない. つまり, オレは単に, 快楽という点においてシビアなだけなのだ.
快楽にはこだわるが, あるものとあるものの差異には, 本質的に興味がないのだ. だからこそ, オレは快楽主義者なのである.
CD 評論なんて, ナンセンスである. オーディオ装置によって印象がちがう, どころじゃない. もっと, 全然, 決定的に変わってしまうのだ. 音楽の基本的な要素であるフレージングとか和声とかがきちんと聞こえてくる, これこそが, 音楽を再生装置で聴くことができる最低条件なのである.
クラシック滅亡論と宗教としてのクラシック #
クラシックはもう滅びたと思っている.
クラシックは, 人間の普遍的な真実, 世界の真理を表すものである.この世のものでありつつ, この世を越えたものをあらわすもの, と言って言いすぎなら, 予感させるものである.つまり, 感覚でとらえられるものだが, 感覚を超えなければならない(精神性をもたなければならない).
というのが, モーツアルトから第二次世界大戦前後に至るまで, クラシックの大きな特徴だった. けれども, 普遍性, 真実, 真理, 理念, 理想, 永遠・・・ そういったクラシックを支えていた概念は, いまやウソっぽいものとなった. というより, そうであるべきなのだ. 結局, 普遍性とか真実とか, 真理とか理念とかのほとんどは, ただ, 特定の人が信じ込んで, 他人に強要していただけにほかならない.
それらはウソとまでは言わないにしろ, 一部の人にとってしか, 正しくないことがはっきりした. 別の人間は別の信実や理念をもっている可能性も明確に意識されるようになった. そうして, 近代の生み出したクラシックは, 突然, 古くなってしまったのだ. 西洋文化・西洋文明が相対化されたのと同時に. 西洋が西洋であることを反省的に眺める可能性が強まったのと平行して. 現代の演奏家たちは, 壮大な真理や理念を語ったりはしなくなった. もっと個人的な感じ方を語る. そして, 精神的なことを問題にするより, 感覚的なことを問題にする. あるいは歴史的な事実に興味をもつ.
現在の地点から眺めるなら「クラシック」はウソである. 夢である. 妄想である.
クラシック, あるいは近代の「個人」が作り出した芸術は, その芸術家独自の宗教なのだ. 体系なのだ.
「オレには世界がこう見える」「人間とはこういうものだ.人間とはこうならねばならない」
という世界観・人間観の表明なのだ. あらゆる宗教がそうであるように.
クラシック評論に面白い若手が出てこない理由 #
note: いやいや2022の今にいたってはYoutubeで名盤を聞きたい放題だ.
このエッセイはたしか2000年代に書かれた. 2022年現在, 音楽はサブスクて無料できくことが当たり前になり, さらに状況は変わりつつある…
もはや令和の今はほとんど無料で聞けるし, 特にクラシック音楽の名盤なんて著作権が50年で切れる仕組みが加速させる.
強烈な個性を持つ演奏家を生であれこれ聞けたのは, 1980, 90 年代初めあたりまで. CD が安くなりすぎ (また, 刺激的なガイドブックも出版されすぎ?) 日本の社会全体を見て, 若い人々が「趣味」を持たなくなっている. そのときの流行でありこれやってみるだけ. 景気が悪くなったせいで, むやみやたらと合理化が叫ばれ, 無駄が嫌われるようになった. これまた不景気のせいで, 実用的で食える学問を志向する人が増えた. 優秀な人間が, 人文諸分野に少なくなった.
日本人の優等生的価値観と個人的幸福論 #
オレが外からの目で見て, 日本人って変だな, と同時にかわいそうだなと思うことがひとつある. それは, 何でもかんでも優秀な成績を取らないと気がすまないということだ. かつてなら経済成長, いろいろなスポーツ分野, 今ではサッカー・・・どうして自分がやることすべてにおいて優秀でないときがすまないのだろう. 優等生と同じで, 不出来な教科がひとつでもあると, 不安で仕方がないようだ. 世界的に見てもユニークな芸術や文化をいろいろ持っているのだから, 苦手なことがあったって全然かまわないのに.
言い換えると, 自分自身に満足できないということ. これは, とても不幸なことだ. 本来, 幸福とは, 自分に満足することだろう.
「オレは大金持ちじゃないが, 食うに困ることはない. ありがたいことだ」「俺はモテモテじゃないが, 性格のいい奥さんをもらって, かわいい子供もいる. ありがたい」. つまり, 他人がどう思おうと, 「オレは幸せだなあ」と思えれば幸せなのだ.
本当なら, 日本人はもっと幸せに感じていいんじゃないだろうか. 戦争はない. 身分制度はない. 食うに困らない. 犯罪が増えたといっても, パリやローマみたいに終始すりやひったくりに気をつけなくてもいい. でも, なんだか, 自分に満足することを怖がっているみたいだ.いつでも目標を立てて, がんばる. それを達成するためにストレスをためる. 達成したら自信と同時に「オレは最高だ」とヘンな傲慢さを持つ. 達成できない人はコンプレックスを感じて屈折する.
大人も子供もストレスで自殺しちゃうような社会. これはまずい. まじめな人ほどうつ病になりやすいようだ. 適当な手の抜き方を知っておいたほうがいいぞ.
最近はやたら競争といわれるようになってきた. が, これは大いにまずい. 競争したい人がするのがいいが, 強いられた競争は, ストレスを増加させ, 社会を殺伐とさせる. 何より, 競争の究極の姿が戦争, 殺し合いだということをお忘れなく. つまるところ, 競争して幸せになれるのはごく一部にすぎないのだ.
そして, 芸術もまた, 本当は競争とは何の関係もないことであり, 自分が満足するまで徹底的に何かを窮め尽くすことに他ならない.
日本人と宗教観 #
オレが日本人を見ていて, かわいそうだなと思うもうひとつのことは, 現在の日本人は明確な宗教を持たないことだ. オレたちの世界では, 突然, 想像もできないことがおきる. 大災害, 大地震・・・いつ何時, 突拍子もない不幸に見舞われるかもしれない. 宗教とは, そんな目にあった人を慰めるのに有益なのだ.
[どうして, よりによってオレの娘があの電車に乗り合わせたんだ? 」 [どうして何の罪もないオレが, 病気に感染しなければならなかったんだ? 」
テレビや新聞はそうした声でいっぱいだ. もちろん, そうした悲しみはよく理解できる. だが, これらは問うても仕方がない問いなのだ. 当然ながら, だれもが答えられるはずがない. 答えがない質問をおこなうというのは, よほど意図的に, よく考えてでないとマズい.
そんな質問は自分を苦しめることにしかならない. 苦しみから抜け出すのに時間がかかる. だから, そういう問いは立てないようにするというのは, 生きていくうえでの知恵のひとつなのだ.
もうひとつの知恵が, 神や宗教を持つことなのである. 宗教といえば, 平たく言えば,
「神のお考えになっていることはわからない」「運命とは不可解なものだ」「人間様の都合で物事は決まらない」
ということ. そう考えれば, ひどい目にあったのは, 自分が悪いからでもなんでもなく,よくわからないが神や自然や宇宙の意志であるらしいと考えられる. [人生とはそういうもの」だ. 「なぜ? 」と論理的な理由を求めるのは, 最初からバカげているのである.
もしかしたら, 論理的理由があるのかもしれないが, 少なくとも人間の手に届くところにはない.
宗教とはある地点で思考停止することである. が, まさにそれだからこそ, 楽になるということである. ハッキリ言って, よほど優秀で強靭な人間でなければ, 神や宗教を信じたほうがいい. 考えても仕方がないことは放り出して, 他人に任せ, この場合は神様任せにしてしまったほうがいい. そうしたほうが人生を楽に生きられるとオレは思っている.
さらに, 宗教とは, ある社会がスムーズに機能するためのルールでもある. 合理性だけで考えるなら, 納得がいかないことは世の中にいくらでもある. そこを, 神様の教えがそうだからという超越的な権威を持ち出して鎮めることができる.
今の自由思想や人権思想だって一種の宗教のようなものである. あらゆる人間が自由で平等であるというのは, 神の存在と同じく, いやもしかしたらそれ以上に証明が難しいかもしれない. しかし, そういう「疑ってはならない」大きな枠組みを最初に打ち立ててしまえば, あとはそれを基準にして細かいことが決められる.
少なくともオレには, 宗教よりは, 自由思想や人権思想を大きな枠組みとしたほうが快適に思える.
最後に, 愛や家族も宗教の一種だと付け加えておこう. 「宗教とは, 非合理的なものであり, 思考停止であり, 社会を成り立たせ, それゆえ人間を楽にするもの」と定義するなら.
💡美的なものに共通するルール - 節制と快楽 #
贅沢なんて数日であきてしまう. 贅沢はたまたまだから楽しいのだし, 慣れてしまう. ミシェル・フーコーが言っているように, 快楽のためには節制が大事なのだ.
じつは料理を支えている感覚も, 音楽も, 美術も, 文学も, 通い合うものがあること. つまり, 味覚的だろうと, 聴覚的だろうと, 視覚的だろうと, 美的なるものに共通するルールがあるということ.
オレはあたかもマーラーの交響曲を聞くようにコース料理を食べ, 小説を読むようにブルックナーの交響曲を聴き, 極上のスープを味わうように絵を見る.
各要素のバランスの取り方,
- 時間のコントロール,
- 空間のコントロール,
- 刺激のコントロール・・・
みんな同じなのである.
自然保護と人工美 #
オレは思うのだが, この現代で, すなわち人間の開発の手があるとしたら, それは自然でない. 極度の人工なのである.
人間が「ここはそのままにして置こう」と考えを人間の意志によってそうなっているという点で, 完全に人工なのだ.
自然保護とは, じつは極度の自然管理主義のことなのだ. もっともオレは自然と人工という素朴な区別が納得できない. 人間は自然の一部である. だとしたら, 人間がおこなうことは, 動物の行動と同じく, 自然の一部ではないのか. 人間がある行動をおこなうことが, 人間には理解できない自然の摂理であるという可能性は否定できないのではないか. たとえば, 人間をしに至らせるがんもまた自然の摂理であるのと同様に.
オレは, 人間が死滅して悪い理由は何もないと思う. しかし, 多くの人が無邪気に信じているように, 仮に人類が存続せねばならないとするなら, 人間が自然を管理しなければならない. これは間違いない.
ならば, 問われるべきは「どのような自然をわれわれはもつべきなのか」である. そうした問いを無視して, 「日本の本来の自然」などと言っているのは, たんなる情緒主義, センチメンタリズムであり, 容易に暴走する可能性があるという点で, きわめて危険なのである. アノルドがいっているように, 「本来」などという言葉は自分に都合がいいことをごり押しするときに使われる言葉なのだ.
昨今のナショナリズムの台頭とともに, 「日本独自の自然」と強く言われるようになってきた. しかし, 何が日本独自の自然なのかは深く問われないし, そもそも自然は変化するものなのである.さらに, なぜ日本独自の自然は守らねばならないのかを問う必要もある.
多くの人にとって, 自然とは個人的なノスタルジーでしかない. 自然とは何か, どういうものなのか, どうあるべきか, 人間とは何か, どうするべきかという思考を経ずして, つまり, 大きな思想なくして情緒に流され「自然を守れ」などと叫ぶのは無意味どころか, 有害なのだ.
そして, 死期を悟ったら, ヨハン・シュトラウスの『こうもり』序曲をかけて, 死ぬのだ.
📚クラシック B 級快楽読本 許光俊 鈴木淳史 洋泉社 (2003) #
大学生の時に影響を受けた書籍. わたしの技術ブログのモットーである ハッカー未来派宣言 はこの本のまえがきのパロディだったりする.
ref. 📝未来派宣言
邪悪論 #
世の中が実にとてつもなくマイナー志向を強めている. 東京という大都市のそこかしこには, いつしか, さまざまな変気な趣味人たちを相手にするちっぽけな店が増殖し始め, 続いて, 大型店までがそんなお客を取り込まんとマイナーの一大集積場となるに至った.
なぜに? おそらく, まずは単純にルサンチマン=復讐心・嫉妬心から. この真理はかつてはメジャーの脇でひっそりと, あるいはメジャーの王位を簒奪せんという野心に身を辛く焦がしながら生きながらえていたものだった. マイナーであることは, 大衆からの優越したエリートであることの証であるかのような, 理解されない天才を任じるのが, この種の人々の常である. 今, 私たちは隣人がどのような愉楽を味わっているか, メディアを通じてことごとく知らされている. そんな時代, ルサンチマンはより陰湿で偏在したものになる. マスメディアが宣伝し, 演出する幸福から取り残されがちなものは, いきおいマイナーの中に別種の幸福を探す. 苦甘い幸福を.
マイナーのもうひとつの姿は, 大量消費者である. 彼の本質は永遠の欲求不満であり, 終わりなき運動, つまり, 欲望そのものである. 恐ろしく虚無的な相対主義の申し子である彼は, 疲労困憊のはてまで, 生温かい湿った欲望の海に漂い続けることだろう, 資本主義の模範的な騎士, ただただ差異を求めての大航海. その実, 狭い球の中をぐるぐる回るだけの監禁.
そこに邪悪が登場する. <邪悪>は, まず第一に, 価値の絶対的な高さを主張しない. ましてや, あるものを, それが知られていないにもかかわらず高価値であると主張することは,邪悪にとってはさして重要なことではない. むしろ, 価値の低さは, まさに低さゆえに特徴として受け入れるのが<邪悪>なのである.
そのとき, 価値の低さは低いままにつまらなくなくなるという魔術的な変貌を見せる. 万事はどこまでも平らな価値基準の砂浜にばら撒かれた貝殻である. それをいかに見つけ,どう把握するかが優れた手際の見せ所なのだ. 乱暴に言ってしまえば, 存在論ではなく, 認識論なのである. 判断ではなく, 批評なのである. つまらないものがいかなる関係性の中で面白いものに化けるか, その生き生きとした遊戯が<邪悪>なのである.
邪悪は, メジャー志向の王座を奪おうという要求など微塵も抱いてはいない. ただ, その土台にひびを入れて, 人々に王座は絶対でもなんでもないと思わせることを目論む. 仮に王座が倒れたとて, <邪悪>が王座につくことはなく, 彼は新たな王に再度軽やかで鋭い攻撃をいかけようとするだろう.
ある意味では,<邪悪>は生が狭い範囲に限定される貧しさに対する極度の恐怖でもある.数十もの同曲異盤があるというのにわずか数種類の決定版にしがみつく昇進さ・臆病さを笑って,秩序の統制の糸が切れた空間に身を躍らせる痛快さが,<邪悪>を特徴づける.聴き手が画一的にひとつの音楽に喜びを見出せるはずもない. 快楽主義たる<邪悪>がそうした状況に満足できようか?
では, なぜそうした邪悪が誕生したのか? 二〇世紀は激しくデータベース化する時代だったから. 二〇世紀は, これから起こる事ではなく, すでに起こった事に対して異常な好奇心を燃やした. 二〇世紀は古文書であれ, 遺跡であれ, 人類の過去を積極的に発見し, それを往時のコンテクストの中で再現することに異常な情熱を注いでいた. そうした情熱の結果, あらゆる価値は, その情熱を取り巻く環境においてのみ有効であることが明らかになった. <邪悪>とは「価値を価値基準とともに眺める」態度である. 価値基準を背景としない価値は存在しないし, 価値基準を視野に入れずに価値を語ることは恐ろしく幸福な幼児段階であるに違いない. そして, さまざまな価値基準が重なり, 反発し, 変化しながら存在しているのが世界なのである. 邪悪はそうした世界を受け入れる. <邪悪>とは両義的な様相を認め, 綱渡り的な危険に進んで身をさらすことである. <邪悪>は硬直した<真理>に背を向ける.
邪悪は断片を引き剥がし, 新たなコンテクストを作って遊ぶ. そうやって全体性が現れる.だが, おそらくアドルノもいっている類の, 決して見えないような全体性が・・・.
<邪悪>は自由であることの孤独である. <邪悪>はモナリザとは反対に「すべてを知ることができないもの」の寛容の微笑を浮かべる.
げいじゅつの胡散臭さ #
けっこうこの文章に影響を受けている.
クラシックがキライである. 音楽そのものはさておき, 音楽に接するときのみの寄せ方置き所, その作法うんちくのあれこれが嫌いである. たとえば, 「芸術性」なるものを錦の御旗に, たかいの不快の壮大の, 身の丈過ぎたる言葉あまた振りかざし, およそ味噌汁のにおいの届かぬところに祭り上げて, 美の感動と言いつのる. その真摯な素振りの裏側に紛々とにおい立つスノビッシュな脱俗志向, あるいはいまだに亡霊のように浮かび上がってくる脱亜入欧なるコンプレックスが実に鬱陶しいのだ.
だいたい金科玉条と押し頂く「芸術」というしろもの, そりゃ一体なにもんだ. 鍛え上げられ磨き抜かれた芸であり技のことか. どうやら違う. 何か得たいの知れぬ「高み」に通ずるもの, 人間存在の深みに触れるもの. 巷の株音極に現をぬかす朴念仁には理解の届かぬ, 知識と教養と畏敬の念をもってして初めてお近づきになれる選ばれた世界てか?bull shit! 勘弁してくれ. その「高み」に触れて感動してなにをする. いかがわしいねぇ, どうにもくせぇ. それらクラシックに思いを寄せる心情の表層からしみだしてくるものには, 抜きがたく差別を生み出す明治伝来の構造がはりついているんじゃないのか. 表れとしては, 昨今いささかとっちらかって排他的カルト趣味の顔をしているかもしれないが, 「部外者」に対する閉鎖性の中心に「好き・嫌い」というレベルを超えた「優秀」を弄する価値観がぶら下がっている. それが芸能の大衆的徒労性を逸脱していて, たまらなく鬱陶しいのだ.
音楽, 芸能だぜ. しろうと大衆に開かれ, その心情に落ちてトキメキを生み出さない芸能はいわば「かたわ」である. 作法に縛られ, ファナティックな愛好者の偏愛にしか供さない音楽はすでに死んでいる.
まずは音楽に「理会」することから始めなければならない. 切り口は「芸」である. 音楽における芸とは, 音の扱う技のことであり, そこに込めたこだわりの想いである. そこに突き抜けた「狂」があり, それが何かに触発されて飛び散る瞬間に「華」が生まれ「色」が香る. その華や色が聴き手の情に滑り込んで響きあい, トキメキに触れる. 「狂」に突き抜けさせるものは, 響きに対する惑溺であり, 技に対する矜持である. それなくして華は生まれない. 「感動」の身振りはこの際捨ててかかろう. 言葉で音を「補完」した瞬間に音楽は文学に変質してしまう.
「粋」という言葉がある. 意味は混じりけがないこと, あるいは飛びぬけて質がいいこと. 芸や世知人情に, つ, と隅々まで通じている様子を表す, ひとつの美意識を表象した言葉である. そうありたいと思いつつ, ついと地がこぼれてなかなか捕まえられない. ふ, 情けねぇ, と一人笑ってそれがまたたまらない. 「粋」は通人の世界である. そのまわりを巡ってなりきれぬもの, およばざる無粋, 過ぎたる粋狂, 畢竟, これが大衆のものである. だから「野暮の口から行き過ぎの, 粋の粋ほどハマリは強く」とばかり, そのなりきれなさに突出してゴリゴリとこだわる心情に「庶民」が同期する. というわけで, 測情に分け入るそのトバ口は, 無粋と粋狂.
粋狂を踏み外すと「怪異」になり, 無粋を伏し拝むと「風格」になる.
イッちゃったということ #
「イッちゃった」って何? 私の日本語のバイブル (知る人ぞ知るフフフの辞書), 「新明解国語辞典」 (三省堂) にお伺いを立ててみましょう.
いく→ゆく→「物事が」好ましい状態に達する. 「狭義では合体時にクライマックスに達することを指す) ・・・ある状態になる・・・決定的な状態に近づく.
なんと, さすがは「新明解」. そう, イッちゃった演奏家とは, あたかもセックスのときの女性のごとく (男も?) 己の快楽をケダモノのようにすすりこむうちに, 目を見開きつつも周囲が見えなくなり, エクスタシーに溺れ, 頭も身体 (特に顔ですね) もトリップしっちゃった決定的状態でものすごい演奏をする人たちです (様子だけでイッちゃって, 演奏自体はだめな人もいますが).
イッちゃった人, イッちゃった状態には, まともな常識, 羞恥心, 他者の存在は通じません. とするなら, イッちゃうとは一種の絶対, 悟りともいえるでしょう. しかし, これこそ音楽の, 否, 舞台芸術の醍醐味と言わずして何とする? この妖しい魅力を知らない善良なあなたのためのおいしいメニューをごらん遊ばせ.
📚クラシック CD 名盤バトル 許光俊, 鈴木淳史 洋泉社 (2002) #
名盤・・・けち臭い. この CD を買えば損をしないという訳だ. 卑小だ. 芸術はそもそも無限の可能性を誇るべきもの. それをたかが一つの解釈に限定されてたまるものか. 反動的. 永遠の名盤だの, 不滅の名盤だの, 名盤は時代を超えて生きると信じられているようだ.
そんなこと, ありはしない. 人間の考え方, 感じ方, 趣味はあれこれと移りゆくもの. それについて価値や評価が変わるのはあまりにも当然. もしそうでないとしたら, よほど鈍いか, 馬鹿か, いずれにしても反動的なのである. 不滅とか普遍とかいった言葉は, その反動性を隠蔽するための不器用な美辞麗句に過ぎない.
芸術とは, 生まれたそばから, さらなる可能性を求めてもがき苦しむもののはずだ. あるところに停滞していることを最も拒むもののはずだ. 名盤は, 名盤であることによって, すでに批評の対象にならねばならない.
芸術の価値は, 時速何キロで走れるとかいう, 客観的事実とは一切かかわりがない. 「よい」演奏とはなんなのか? 客観的によい演奏などあるのか? そもそも客観なんてあるのか? 私がある演奏についていえるのはただ, 現在の私にとっておもしろい, 美しい, 発見がある, 胸をしめつけられる, イライラする, 身体がかゆくなるということだけである. こういうことを書くと, 「要するに自分勝手気ほめたりけなしたりするだけじゃないか」と思う人もいるかもしれない. ズバリ, その通りだ. 私は私の審美眼を信じるしかない. もちろん例外もあるとはいえ, 基本的にはよいもの, 悪いものにたくさん触れれば, どれがよいのか, 悪いのかは, おおよそわかるようになるはずなのだ.
今日, 言語化しにくい経験はますます排斥されつつある. なんでも説明しなければならないというのはくだらぬ衆愚主義でありうる. もしかすると, 私が一生懸命音楽の言語化に励めば励むほど, この衆愚主義に加担しているのではないかという気持ちがなくはないのだ. やはり一番よいのは, 「これのどこがすごいかはキミが考えなさい」ではないか. すごさを人に言われなくても自分で見つけられることができないで, どうして美を味わえるのだろう.
最近, 音楽や芸術を語ることは自分の経験を語ることでしかないという思いがますます強く持っている. それに対し, 音楽を聴くこと, 聴き方があまりにも社会的に強要されているのが今の状況だ. 個人と社会が無反省に結びついてやしないか. そう思うがゆえに, あえて個人性にこだわってみたのである.
📚邪悪な文学誌(監禁・恐怖・エロスの遊戯) - 許光俊, 青弓社(1997) #
私は、小学校のときから、倦怠に溺れそうだった。<普通>に息づまりそうだった。だから、いつも主流から離れたところに行って、さらにそこでも少数派のものばかり見つけては、異常性の中で退屈を紛らわしている。ここでもまたバタイユを引けば、「文学とはついに再び見出された少年時代のことではないだろうか。ところで、少年時代とは、もしそれがこの世界で支配的な立場に立つことがあるとして、そのときもなお真理を宿しているものだろうか」(文学と悪)
感覚的なものを優先してみれば、対象には主流も傍流もありはしない。異端的なものは異端的なものであり続ける矜持を持つべきだろう。異端を愛するものは、異端の価値を見出し、嘆賞、決してそれを皆に見せようと陽の当たるところに引きずり出すべきではあるまい。妖異の花は、夜にひっそりと道を這う人にのみ見えるのだし、それが美しさである。「文学とは霊的なコミュニケーションである。それは誠実さを要求する。・・・この峻厳なモラルは当然悪の認識による共犯関係から出発して与えられるものである」(バタイユ 文学と悪)
細部の仕組みを解き明かす作業が、作品から表現の温度を失わせてはならない。ここの細部が全体となるとき、それを可能としているのは、ほぼ、論理であるが、常に論理であるとは限らない。速度もまた論理の代わりとなってディテールを張り合わせることができる。
夢野久作の作品がたちまちにして愛読者をその妖しい世界に引きずり込み、危険な魅力で持って中毒状態に陥らせる力のひとつは、彼の描き出す世界がこれ以上はないというほど激烈な明暗のコントラストを思い切って隣り合わせ、それどころか力ずくで一体化して、感覚的・心理的な眩惑を味わわせることである。大聖堂の中では楽園と地獄、美と醜、善と悪、愛と憎悪、優しさと残酷さのこもごもが共存しつつ天に向かって上昇するように、夢野の中では相反する要素が独立的ではなく、互いに依存しつつ、抱き合って無限落下へと身を躍らせる。対比のもととなるに要素は常識的にはあたうかぎり最も遠い性格を持つ。それが夢野の筆によって一瞬のうちに距離を縮めて一体化させられるスピード感は、すでにそれだけで酔いを呼び起こす。「接近する二つの現実の関係が遠く、しかも適切であるほど、イメージはいっそう強まり、いっそうの感動の力と詩的現実性を持つようになるであろう」(ピエール・ルヴェルディ シュールレアリスム宣言)
作者たる夢野は凄惨なコントラスト図を心ゆくまで眺めて堪能するのだが、そのヨーロッパ中世絵画さながらのぎらぎらとした陰惨な対比や共存の仕方こそが、戦慄美のひとつであり、さらには世界の存在の在り方となる。その際、極端な二元論の要素間には優劣もなければ、優先順位もなく、ただに要素が、業のごとく超越的なしがらみとなって同じ生を生きはじめる神秘が描かれる。
文と写真によるコラージュを作ること。ビックバン的運動力学にのっとった(すなわち、初速が次第に加速していく)猥雑さ。さまざまな欲望は、結局総体性をめざす、という予定調和的な希望。
ショーウィンドーは商品を神聖化する祭壇である。それは購買者に動機も結果も要求はしない。ただ、信仰と服従のみを求めるのである。
コンピューター・ネットワークは、ことさら性的ではなく、進歩のイメージや有用性の強調によってカモフラージュされてはいるが、実質的にはポルノグラフィーである。モニター画面を流れる文字は、匿名性の欲望を乱射する。その攻撃を受けたものも欲望に伝染し、ネットワーク自体が巨大な欲望の集積回路となる。ネットワーク自体が巨大な欲望の集積回路となる。ネットワークはポルノのように無限に要望を刺激し続け、膨大に消費され、膨大に需要される。そのますます急速に拡散していく有様をビックバン後の膨張宇宙にたとえることができよう。とすると、ネットワークの死は、宇宙と同様、温度の低下によっておこることになる。事実、ネットワークにとって量は加入者増大のための強力な誘引剤であると同時に、やがて構造的に麻痺をひきおこす時限爆弾でもある。
戦慄文学において最も重要なことあ、時間の流れの効果的な統御ということだ。ある部分では読者をじらし、あるところでは急速に話を進め、というテンポの調整である。
「お前は生涯休みなくこの美しい私的な陶酔の中に居続けなくてはいけない。全人生がひとつの音楽でなければならない。」
恋愛においてはその女の美とその女によって与えられる快楽が<女>の美であり<女>の与える快楽であるのに対し、マゾヒズムにおいては最初に与えられたものは個別的な一人の女なのではなく、概念たる<女>の美であり、快楽なのだ。前者は与えられたものがすべてであるのに、後者では一人がすべてを与えなくてはならない。恋愛では個人の中に概念が吸収されるのに、マゾヒズムにおいては個人が概念に吸収されるのである。
マゾヒズムは何よりも享受の姿勢、際限ない快楽への渇望である。マゾヒストのひきおこす現象は、苦痛を探し求める活動の連鎖なのではなく、快楽を骨までしゃぶりつくす貪欲さの結果なのである。これは美食家に特有の態度である。健康上の配慮などは彼の破壊的な情熱においては一顧だに値しないのである。美食家は冷静である。快楽の量を精妙に計算するためには意識が覚醒している必要がある。美食家は目の前のものを存分に味わいながらも、それを上回る快楽があるであろうと考える。彼は素朴な陶酔を、卑しく野蛮な俗人の興奮として軽侮する。それは、一過性のものに過ぎないし、そのような陶酔の襲撃に無防備に身をさらすのは無知なるものの愚行でしかない。美食家は同じ刺激からより豊かな快楽を取り出すことができるし、それが美食術なのである。快楽を事前に連想する快楽というものも存在するのだ。
対象が主体にいかなる作用を及ぼしたかが重要なのだ。強い作用を内面にひきおこすものは快楽だけではない。苦痛もその点では同様なのであり、それゆえマゾヒストは苦痛と快楽を並置する。「実際愛する女の不実さの中には苦痛を伴う刺激、最高の快楽がありますね」「身体の奥の方からぞっとする戦慄が襲ってくる」「私は不意に甘い恍惚感に襲われた」マゾヒストにとっては、喜びの驚きであれ、不意の不幸であれ、突然の愛の告白であれ、すべて歓迎されるのである。快楽を生み出す儀式は繰り返しが可能であるが、刺激は次第に強まらなくては刺激であることを止める。刺激を強化するのが障害である。障害は克服されえる限りで困難なほどよい。絶望のさなかでの希望ほどマゾヒストを鼓舞するものはない。マゾヒストは追跡を行いつつも獲物を手に入れることはない。追跡の遊戯の面白さが彼を捉えている。遊戯は未来を持たず、その魅力は現在の中に尽きる。男女間の関係という生の最も暗く悲劇的な関係が、最高の陶酔を獲得するというわけである。遊戯の最大の目的は、結末ではなく、享受である。結末への期待は遊戯を面白いものにするが、結末の到来は遊戯の終了を意味するから、その到来を遅らせようという努力がなされる。オルガスムスへの期待は期待にとどまらなければならない。
Insights #
💡美食家は同じ刺激からより豊かな快楽を取り出すことができる #
クラシック音楽の目的は音楽自体にある。つまり、主題や動機の提示、発展のなかにある。(だから、作曲家の人生観、生涯や音楽史は二の次である。)喜怒哀楽の感情を、洗練された感覚と知性により表現することが重要なのだ。
細部の仕組みを解き明かす作業が、作品から表現の温度を失わせてはならない。ここの細部が全体となるとき、それを可能としているのは、ほぼ、論理であるが、常に論理であるとは限らない。速度もまた論理の代わりとなってディテールを張り合わせることができる。
美食家は冷静である。快楽の量を精妙に計算するためには意識が覚醒している必要がある。美食家は目の前のものを存分に味わいながらも、それを上回る快楽があるであろうと考える。彼は素朴な陶酔を、卑しく野蛮な俗人の興奮として軽侮する。それは、一過性のものに過ぎないし、そのような陶酔の襲撃に無防備に身をさらすのは無知なるものの愚行でしかない。美食家は同じ刺激からより豊かな快楽を取り出すことができるし、それが美食術なのである。快楽を事前に連想する快楽というものも存在するのだ。